心に残るメッセージ
小助川次雄牧師 略歴
日本ルーテル同胞教団 秋田シオンの丘教会主任牧師。水戸黄門をこよなく愛する牧師でもあります。
略歴
秋田大学学芸学部卒業
東北大学大学院 文学研究科 博士課程単位終了[専攻 組織神学(M.Div)]
現在 シオンの丘秋田キリスト教会(秋田市) 牧師
著書
「大いなる招き」
「信仰と不信仰の間」
「老いを日々新しく」
他
訳書
「クリスチャン・カウンセリングの実際」(C.ナラモア)
「人と人を結ぶ物」(C.ナラモア)
他
趣味、他
プロ野球観戦 (日本ハム)
イエスの受難による救い
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには、神の力です。」
受難週とは、イエスさまが十字架につけられるまで受けられた苦難の数日間をさしております。さて、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたということは、多くの方がご存じのところでしょう。
しかしながら、そのことが自分と関係があるということについては、あまりご存じないようです。それは、とても残念なことです。
イエス・キリストというお方が十字架の上で死なれたのは、今のこの自分のため、私のためでもあったということをお認めになられる方は、確かに救われます。そして、その人の人生は確かに新しくなります。イエス・キリストによって与えられる救いは、その人を生れ変らせる救いです。
私のような、罪人のかしらのような人間をも、こうして、人生を尊く、感謝のうちに、人々に仕える者として生きれるようにしてくださいました。
私は、時々思わされることがあります。たくさんの人が、今のままではいけないと思い、なんとかしたい…と考え、悩んでいらっしゃる-そして救いを求めていらっしゃる。変革や改革を求めていらっしゃるにもかかわらず-どうして、なかなかそうできないで悲しんでいらっしゃるのだろうか。
…本当に考えさせられてなりません。
本当に救いを求めてはいないのではないか。甘えているのではないか…と、つい思ってしまうことがあります。これは意地悪い、思いやりのない考え方でしょうか。
私は、そうは思えないのです。これは、体の不調や病気を訴えながら、医者に行こうとしないのに似ているのではないでしょうか。もし、イエスさまのところに来るならば、そのうつろな心、むなしい、淋しい心、悪意や罪にさいなまれている心が、新しく生まれ変るほどのすばらしい救いが与えられるのに、…本当に残念でなりません。
イエス・キリストが十字架の上につけられ、さばかれたのは、私たちを不幸にしている私たち自身の罪のためなのです。
私たちの罪のために身代りになって、さばかれて、死んでくださいました。私たちが、このイエス・キリストを信じるとき、私たちも、古い人がさばかれて死ぬことになるのです。そして、イエスさまがよみがえられたように、私たちも新しい神の子供の命に生きる者とされるのです。
本当に新しい人間に生れ変りたいと願っていらっしゃる方はいませんでしょうか。
「いやし主の御降誕」
御承知のように、クリスマスとは、イエス・キリストのお誕生日です。でも、この誕生日は、普通の人の誕生日とは少し違いますね。
毎年のように、世界中で実にたくさんの数えきれないほど多くの人々によってお祝いされます。それも何百年も、いや2000年もの長い間、祝われて来ているのです。
そして、そのたびごとに、人々の心の中に、社会に、世界に、言い知れない暖かい、光ある、希望を与えて来ました。実に不思議です。
なぜでしょうか。それは、イエス・キリストというお方が、普通の人とは違うお方だからです。
イエスさまは、単なる宗教的天才とか聖人とかいう人ではありませんでした。聖なる神の御子でいらっしゃり、神が人となられたお方だったのです。ですから、そのお誕生日は、不思議なひびきと力を感じさせるのです。このお方は、「メシヤ」すなわち「救い主」だったのです。聖書では次のように書いています。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今……すばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生れになりました。この方こそ主キリストです。……」(ルカの福音書2章10-11節)。
そして、今回は、この救い主キリストさまのすばらしい一つの面をお知らせしたいと思います。それは、「イエス・キリストは、『いやし』の主(しゅ)でもいらっしゃるということです。特に私たちの「心」をいやしてくださるということです。なんというすぱらしい福音ではないでしょうか。
今日、「心の病んでいる人」、「心の傷ついている人」は、どんなにか多いことでしょう!? あるいは、あなたもそのひとりかも知れません、あなたのご家族、あなたの友人、知人の中に、そういう人がいるかも知れません。
でも、ここに「よい知らせ(福音)」があります。まことの神が、私たち人類をお救いくださるために、この世に、私たちと同じ人間になってお生れくださり、すべての人が救われるために、身代りとなって十字架について死んでくださいました。
ところが、このことを成してくださった救い主・イエス・キリストを信じるときに、「心の傷」はいやされるのです。
あなたも、ぜひ、この「いやし主(ぬし)」の聖なるお誕生日を本当にお祝いしてください。この祝福を受けられますように。ぜひクリスマスを教会でお祝いください。祝福をお祈り致します。
「まことの光」の福音
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」-ヨハネの福音書1章4,5,9節-
クリスマスは、みなさんも御存知のように、神の御子イエス・キリストの御降誕を記念してお祝いするキリスト教の祝祭です。しかし、とても不思議なことに、クリスマスは、ほとんど世界中でお祝いされていると言ってもよいくらいに、世界的に祝われております。また、そればかりでなく、クリスチャンに限らず、実に多くの、一般のみなさんもお祝いしております。本当に不思議な現実ですね。
私はこのことは本当にすばらしいことだと思っております。きっと、あなたもクリスマス・ケーキなどを召し上がられるかも知れませんね。それは結構です。でも一つだけお願いがあるんです。それはこの機会に、クリスマスの本当の意味をお知りいただきたいということです。
そのひとつは、神の御子イエス・キリストがおいでになられたことは、人に「光」を与えるためでありました。この光は、まことの光であって、すべての人を照らす光であり・どんななや力も対抗できない光です。今日、私たち人間の心の中は、暗黒ではないでしょうか。
生きる意味も分らず、力強く生きる望みも持たず、ただ、何となく生きているような状態ではないでしょうか。ある人は、むなしさに苦しんでおられますでしょう。ある人は、酒の奴隷となり、とばくの奴隷となり家庭も何もない・・・というあわれな状態にあるようです。中には、そのような状態がどんなにみじめであるかさえも気づいておりません。それこそ暗黒ではないでしょうか。それが罪です。
しかし、クリスマスは、私たちに、まことの光、このようなやみも勝つことのできない光、まことの生ける希望を与えてくれます。なぜなら、イエスキリストは、まことの神でいらっしゃるからです。あなたや私を、この罪とやみの中から救い出し、新らしい命を与えてくださるからです。
この新らしいいのちは、永遠のいのちなのです。
クリスマスを本当に祝うことができる人は、新らしく生れ変われる人です。神の御子イエス・キリストを信じて受け入れるとき、このことが実現します。あなたも、この「まことの光」にあずかるひとりとなってください。
「愛の涙」
「彼らは、イエスに言った。「主よ、来てごらんください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。
「ご覧なさい。主はどんなに彼らを愛しておられたことか。」ヨハネの福音書11章34-36節
さて今回は「愛の涙」についてご一諸にお考えいただきたいと思います。
「愛の涙」とは、他人のために流される涙であります。私たち自身は、心の底まで見たときに、本当に他人の利益となるために涙を流せるかどうか、私には分かりません。自分だけのことを考えますと、とても自分自身の中には、他人を愛するゆえに、その人のために涙する・・・しかも、何の不純な動機もなくその人を愛するということは、とてもできそうもありません。そうしたい、そうありたいとは願いますが、自分自身の力ではとてもできそうもありません。
しかし、イエス・キリストは、愛の涙を流されたお方でした。上にご紹介しました聖書の箇所をもう一度ごらんください。これは、どんな時のことかと言いますと、ラザロという1人の男の人、しかもイエス様はラザロとこの姉妹たちと親しかったのですが、このラザロが病気で死んでしまったときのことでした。
こう申しあげますと、自分の親しい人が死んだら涙を流して、悲しむのはあたりまえではないかとおっしゃられるでしょう。たしかにその通りなのです。
しかし、イエスさまは、ただ悲しんでもう二度と会えない、人生とはなんと無情でなんとむなしいものか・・・と自分もやがて死ぬかもしれないという恐れや不安を持って、やりきれない、いやな悲哀の涙を流されたのではありませんでした。
イエスさまには死の恐れも人生の無情を悩むこともなかったのです。永遠のいのちの聖なる神のみ子でいらしたのです。イエスさまは、ラザロを純粋に愛して、涙を流されたのでした。そして、その聖なるお方が愛の涙と共に、このラザロを生きかえらせるという奇跡的なわざをされたのです。
この物語は、新約聖書のヨハネの福音書第11章にくわしく記されています。イエス・キリストというお方は、このようなお方でいらっしゃるのです。そして、このお方を信仰してゆく時に、私たちのような者にも愛の涙を流せるような人生へと変えられてゆくのです。
あなたも、このイエス・キリストの愛の物語をお読みになってみませんか。
「神の愛」
「神はひとり子を賜うほどに世人を愛したもう、神は愛なり、ああ、神は愛なり、汚れはてしわれさえ愛したもう神は愛なり」聖歌392番の1節
今月は「神の愛」についてお話いたします。
旧約聖書の雅歌のことば
「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし人が、愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」
なんとすばらしいことばではないでしょうか。ここには、第一に人の愛の強さということが見られますね。本当の愛は強いのですね。
この雅歌を書いた人は、この強さを文学的な表現で描いているわけですが、まず「死のように強く」、と述べています。「死のように強い」ということばは、非常に興味深い表現だとお思いになりませんでしょうか。これは、一体どんな強さなのでしょうか。
このことを考えますと、私は一つのことをまず告白しなければならないと思うのです。それは、私のように愛の足りない冷たい人間は、美しい表現を解き明かすのには不適当に違いない………ということです。そのことをおことわりした上で、あえて述べさせていただくわけですが……。
まず一つは、死は弱っている者にも、強いものにも、拒みえない力をもって迫ってくるということです。本当の愛は、どんな人々も拒みえない力として迫って来るという強さと魅力を持っているということですね。
もう一つ、別の面からも考えてみますと、本当の愛は、その愛する人のためには、死んでもいいというほど強いものだということではないかと思います。「死のように強い」ということばは「死ほどに強い」とも訳すことができることばなんですね。
また、次の「ねたみは、よみのように激しく、すさまじい炎である」という表現も「大洪水もその愛を消すことはできない一」という表現も、本当の愛の強さを描いているわけです。一体、そのような愛をだれが持っているでしょうか。間違いなく、このような愛をもって、あなたを愛してくださっている方がおられます。それは、イエス・キリストです。
イエス・キリストの人間への愛は、全く最高の……いや、完全な愛です。あの十字架の上で、私たちのみにくい罪のために身代りとなってさばかれ、死なれました。「愛は、死のように強い」とは、まさにイエス・キリストの愛です。この愛をお知りになってください。
あなたの人生は必ず変わります。
「世の終り」
“世の終りのラッパ鳴りわたるとき、世は常世の朝となり、救われし者は、よもの隅よりすべて主のもとによばれん。そのときわが名も、そのときわが名も、そのときわが名も、呼ばれなば必ずあらん。聖歌634番1節
みなさんは「世の終り」などということばに表面的な関心をあらわすことはあまりなさいませんでしょう。
しかし、私たち人間のすべての心の中には、いつも「終り」ということばが潜んでいるのではないでしょうか。書店に入って目につくことは、いわゆる世の終りのことについて書いている本の多いことです。私は驚きました。そして例の「ノストラダムスの大予言」をはじめ、多くのそのような書物は、ベスト・セラークラスだと言われます。それらの多くのものが、聖書からの勝手な引用と、身勝手な解釈であることにもまた驚かされます。
しかし、実は聖書こそ世の終りについての、今から何千年も前から世の終りについて預言している本家本元なのです。ですから、私はぜひ、みなさんに、直接聖書から、世の終りについて読んでいただきたいと思うのです。ただ象徴的な表現などもありますので、教会でお聞きくださることと、正しい解説書をお読みくださるようにおすすめします。
聖書で教える「世の終り」とは、現代のような悪や罪が力を持って人間を振り廻している、この時代の終りを意味します。善と悪ははっきり区別せられ、悪と悪人は審かれます。しかし、このことと関係して少なくとも二つの大切なことがあります。
一つは、世の終りの時の神の完全なさばきは、現在の私たちの生き方によって決まるということです。それは、今、私たちは神が与えてくださっている「イエス・キリストによる救い」をいただくということです。
ちょうど避雷針の下にあるものが、恐しい落雷から守られるように、イエス、キリストの救いにはいっている者は何の恐れもない、というすばらしい福音があることです。
もう一つの大切なことと言いますのは、聖書の述べている結果、すなわち、世の終りとは、真のみ国、すなわち神のみ国の完全な実現という、すばらしい希望の成就の時でもある、ということです。
もし、完全ないのちのみ国が永遠にないならば-また、もし、全き喜び、愛、平和、いのちのみ国が本当にないならば、一体、人類は、そして、あなたや私は-何のために生きているのでしょうか。また、どこへ行こうとしているのでしょうか。
この問いに対する希望に満ちた明るい真の光に満ちた答えは、神のみことば、神の啓示の書である聖書が与えてくれています。
あなたもぜひ、聖書をお一読みください。
「迷い」について
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス)に負わせた。」イザヤ書53章6節
今、たくさんの人が、随分「迷っている」のではないでしょうか。中には「迷い」がこうじて、ノイローゼになってしまうという人もおります。
私たちが「迷い」に会うときには、強弱を問わず、いわゆる「葛藤状況」に陥入りますね。 そして、その葛藤した心の分れかたがひど過ぎると、ある人は病気にさえなってしまいます。
また、ある人は極端な、反動的な行動に出たり、あるいは、何の関係もない人に、八つ当たりをしたりしてしまいます。そして、お互いに、いやな思いになってしまいます。
私たちは自分が、本当は「迷っている」羊のような存在であることを素直に認めるべきではないでしょうか。そうするときにこそ、まことのものを見出すことができるのです。
私の知っているひとりの中学校の教師は、自分の体力に誇りを持ち、運動も良くでき、いわば、ステキな男性でした。ところが、あるとき、突然、理由の分らない不眠症に襲われてしまったのです。大変悩みました。
とうとう精神科のお医者に行きました。しかしなかなか思うようになりません。彼は、この時にはじめて、自分の弱さもろさを痛く知らされ、真剣に、人の魂に必要なものは、何なのかを、心の中で思いめぐらしたようです。
やがて、教会に来、そして、イエス・キリストの、すばらしい福音に接し救われました。今、いつも笑顔があります。
皆さん、人間なんて、本当に弱い者なんです。なぜ弱いかというと、本当の真理につながっていないからです。また、罪を犯してしまって、からだに「滅び」の原理の力が入っているからです。
私たちは、みんな、まことのいのちの道に帰らなければなりません。あなたをも、主イエスは招いておられます。
「聖書を読もう」
「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には確実な真理が存する」ニュートン
さて、聖書という書物が、世界最大のベスト・セラーであることは疑う余地はありません。なぜでしょうか。冒頭のニュートンのことばのように、そこには、「確かな真理がある」からです。
まず第一に、聖書にはこの世界の始めのことが書かれています。聖書の最初の書物を「創世記」と呼びます。「世の創めの記」というわけですが、その冒頭に次のように書かれています。
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」
この記述は、実に驚くべきものです。今から3500年余も昔に、明確に、この天と地の始めについて述べているわけです。
しかも、現代の科学的な説明の状況とほとんど同様のことが記されているのです。
はじめに「形のないやみ」、後に、「光とやみ」、「大空と水」、「陸地と植物」、「天体」、「鳥と魚」、「動物と人間」というように、創造されて行ったと言われています。
神は創造のわざの冠として、人間を男と女に造られたと記されています。「科学」の「カ」の字もまだなかった大昔の記事に、ここまで明記されていること自体が驚きではないでしょうか。
第二に、聖書は、この世の終りについて書いています。「終末論」ということばをお聞きになられたことがありますでしょうか。近年とみにこの種の本が多くなっています。「ノストラダムスの大予言」とか、「何々予言」という書物は、店頭にあふれていると言っても過言でないようです。
科学者や多くの人たちは、核戦争が世界を滅ぼしてしまい、21世紀が有るかどうかも疑わしいとさえ言っております。実は、この世の終りについての書物の拠りどころは、多くは、聖書の預言書と黙示録という書物です。聖書をタネにしながら、多くの自己流の解釈で、人々の好奇心を駆りたてているようです。
新約聖書の「ヨハネの黙示録」では、この世の終りのときには、もう一度イエス・キリストが来られる(再臨される)と言明しています。
そして、すべての悪や悪者がさばかれ、その後に完全な神の御国が成就すると記しています。
そこには「全きいのち」の新天新地を見ることができます。この点で、聖書の終末論は、いろいろな予言の暗黒、恐怖、不明・・・と異なります。聖書には「永遠のいのち」のみ国の光と希望があるのです。
ぜひ、あなたも聖書をお読みになってください。