私たちの教団
最初の宣教師
1900年、アメリカで、ノルウェーの移民達によって自由教会をモデルにしたルーテル同胞教会の群れが誕生しました。最初はたった5つの教会の集まりでしたが、熱心に聖書教育に着手し、1903年にノースダコタにルーテル聖書学校を設立、1935年には、ミネソタのファーガスフォールスに移転しました。
アメリカのルーテル同胞教団は、中国とアフリカへの宣教に力を入れており、マリウス・ワーダルという宣教師が夫人を伴って中国に使命感を持って遣わされていました。
しかし1937年、日中戦争が始まり、マリウス・ワーダル師はアメリカに帰らざるを得ませんでした。
アメリカに帰ったマリウス師は、夫人と5人の子供達と平穏に暮らしていたのですが、中国の情勢が落ち着くと再び中国宣教に行くよう要請されたのです。しかし法律上、5人の子供達を連れて行くことは許されず、子供たちをアメリカに残していかなければなりませんでした。
中国生まれで、当時13歳だった末っ子のモーリスは、心では「行かないでほしい」と思っていても、口に出すことはできませんでした。子供達のことと、神様のみこころとのはざまで、両親は葛藤しましたが最後には神様の御心に従い、再び中国に行くことを決意しました。子供たちにとっては本当に辛く悲しい、涙の別れとなりました。
ところがその9年後に父親はアメリカに帰る途中で戦乱に巻き込まれて亡くなってしまいました。それからというもの、モーリスは預けられていた家を飛び出し、そして教会を捨てて放浪の旅に出ました。荒れた生活が続く中である時ついに、イエス・キリストに出会うこととなりました。信仰が復活しただけでなく、やがて献身するに至り、神学校へと導かれました。
1945年、終戦。その2年後に、モーリスは卒業し、中国宣教を志すようになったのですが、卒業のタイミングで中国共産主義政権が樹立し、宣教師はすべて国外退去、中国宣教の道は閉ざされてしまいました。すると教団はモーリスに、「日本に行くように」要請してきたのです。中国生まれのモーリスにとって日本は敵国であり、彼らが中国に敵対しなければ父は死なずにすんだかもしれないと考え、これを拒絶しました。
しかし、神様はモーリスに「君は『主が願うところに私は行きます』と賛美していたではないか。」と語りかけます。彼は悔い改め、宣教師として日本に行くことを決意するのでした。
1949年、モーリスワーダル宣教師が来日し、宣教の地として目指したのは、陸の孤島、日本のチベットと言われた東北の、それも日本海側でした。
そして山形県酒田市において、町の中心にある公民館や有名な本間邸で宣教活動が開始されたのです。
60年代の東北地方における宣教区
〈来日から宣教までの経緯〉
1949年6月、アメリカのミネソタ州ファーガスフォールスで開かれた第49回ルーテル同胞教団年会において、モーリス・ワーダル牧師(写真左)は、日本の東北地方への宣教師の一番手として召されました。これがルーテル同胞日本宣教団の誕生です。
モーリス・ワーダル師は同じ年の8月に横浜に着き、1ヶ月後には、第一段階の日本宣教を開始すべく酒田に到着しました。
最初の10年(1949〜1958年)は、宣教団の働き人の急成長期でした。アメリカにおけるルーテル同胞教会の若者達は、日本への福音の門戸が開かれたことによってチャレンジを与えられました。ある人々はそんなに若くはありませんでした。共産主義者が中国政権を手中にするまで中国で宣教師として奉仕していたナイフス家は、日本で働きを始めるのを助けるようにという神の導きを感じ、モーリス・ワーダル師が来日してからちょうど1年後に日本へ到着しました。
しかしその1年後、彼らナイフス家は台湾に渡りました。台湾の中国人達の間で労するためでした。1951年の時点でルーテル同胞宣教団は、複数の家族と2人の独身宣教師で合計14名となり、1955年までにはさらに働き人が19人に増えました。10年目になると宣教師の数は13人まで減少したものの、この初期の間に宣教団は、東北という田園地帯への到達を願うかなり大きな組織になっていたのです。
10年間で働きの範囲も広がりました。宣教開始の地である酒田から東に北に、そして南へと海岸沿いに広がって行きました。宣教団は、他の福音的なグループ、例えばEMAJやLutheran Unityと公式多岐に包含させられることを避けて来たのですが、交わりの基礎は保持しました。この交わりのレベルにおいて、他の福音的なグループとの関係においては宣教の礼譲が進み、そこではそれぞれ宣教団が他の団体の伝道のための領域を認めあったのです。
日本ルーテル同胞宣教団は、1953年の時点では、北は弘前・青森から南は鶴岡・山形までと宣教地を考えていたのですが、1953年までには、弘前にまで働きを広めることで鶴岡の働きに支障を来すことが明らかになったので、次の3つの理由で、大館が私たちの伝道領域の北限であると判断しました。
①弘前周辺で住居を確保することが困難であった
②その時点で可能な働き手の数が限られていた
③既に鶴岡での働きを開始していたすが、そこにはまだ働き手がいなかった
以上のことから、60年代の終わりまでの日本ルーテル同胞宣教団の宣教区は決められました。
東北聖書学院と最初の神学生
1950年、モーリス・ワーダル師はアメリカに残されていた家族を本国から呼び寄せ、宣教師として召されていた兄のフィリップ・ワーダルも家族と共に来日しました。
酒田における彼らの宣教活動には周回を重ねるごとに多くの人々が集まり、最初の洗礼式には、山崎忠雄師を含む19名の受洗者が与えられました。そして宣教の場は酒田、土崎、鶴岡、新屋、能代へと広がっていったのです。
1952年、酒田に「東北聖書学院」を開校したが、教師陣やインフラが整っておらず、神戸での学びを余儀なくされるケースもあった。
その後東北聖書学院は秋田に移転し、神学科に、伊藤良雄師、佐竹昌美師、大島昭男師が入学し、少し遅れて山崎忠雄師、そして新潟の柏崎聖書学院で学んでいた相沢勲師が最後の一年間合流しました。
1961年、日本で働く宣教師達とアメリカ本部の祈りが実り、5人の日本人牧師が誕生しました。
〈第一期卒業生〉
◆伊藤良雄
昭和3年(1928)2月21日 秋田市土崎出身(2〜19歳までは樺太で過ごす)
昭和27年9月(1952) 24歳でフィリップ・ワーダル師より受洗
昭和30年(1955)神学校(聖書科)へ
※9月に秋田に移転。昭和33年、美保子姉と結婚
◆大島昭男
昭和4年1月30日生まれ 昭和25年21歳で受洗 能代を経て大曲に遣わされる
◆山崎忠雄
昭和4年(1929)9月1日 山形県酒田市出身 花王石鹸に10間勤務
昭和25年(1950)7月16日受洗
この同じ日に19名が受洗。その年の湯野浜にて、保守バプテストと共催で実施されたバイブルキャンプで召命を受け、イザヤ書6:8をいただいて献身。東北聖書学院に入学するも、奉仕先の弘前で肺結核を発症、1年4ヶ月の間入院生活を余儀なくされた。
◆佐竹昌美
昭和7年(1932)4/4生まれ 昭和27年、21歳で受洗
◆相沢 勲
昭和8年(1933)4月13日 秋田市土崎出身 今87歳
昭和27年4月13日モーリス・ワーダル師より受洗。同じ日に18名が受洗。
昭和32年4月29日、悦子姉と結婚。昭和34に神学科が開講した際は、新潟の柏崎聖書学院で学び、その後東北聖書神学校に入学。2024年3月21日召天。
写真(左):一期生の卒業式
下段左から、相澤師、佐竹師、山崎師、伊藤師、大島師。
上段左から、海老沢氏、P・ワーダル師、M・ワーダル師、M・ラースン師、一人おいて小助川師。
★小助川次雄師は、1959年に神学科が始まると、一般教養の教師兼、通訳として聖書学院で教鞭をとられました。
その後聖書科で教鞭をとりながら神学を学び神学校卒業後は1965年から、土崎教会と仙台教会を兼牧しました。
「初期の頃は大変なことはありましたか?」の質問にひとこと。「いっぱいありました。」
1968年、短期留学し、神学修士(マスター)取得、東北大の博士課程終了。
翌1969年から、ルーテル同胞聖書新学校長に就任。
私たちの教団は今…
日本ルーテル同胞教団は、2024年3月現在、西は神奈川県、北は青森県までの8県に渡り、全部で26の教会で構成されています。本部は、宮城県仙台市「秋保温泉」の玄関口「愛子(あやし)」にあり、「ルーテル同胞聖書神学校」を併設しています。